ヘレン・ケラーが障害児の安楽死を支持していたことは、日本ではほとんど知られていない。(私も半年くらい前に英語で検索していて知った)
1915年にヘレン・ケラーは障害児を安楽死させることを「人間の庭から雑草を引き抜くこと」と例えた。また精神薄弱者を「潜在的な犯罪者」だとした。どの子供が安楽死の対象となるかは医師団が決めればいいと提案し、子供が可哀そうだと思う人は(自費で)子供を引き取って育てればいいとした。

ケラー自身も障害者じゃないかと思うだろうが、このことの整合性については後に触れるとして、まずケラーが障害児の安楽死を支持するコメントを出すきっかけとなったボリンジャー事件とそれに対するケラーのコメントを見てみる。

1915年、シカゴの病院でボリンジャー家に奇形の赤ん坊が生まれる。知的障害の疑いもかけられていたようだ。外科的手術をすれば救命の可能性が高かったが、ハリー・ハイデルセン医師は赤ん坊の治療をしないよう両親を説得した。両親はそれに同意して、赤ちゃんは5日後に亡くなった。ハイデルセン医師はこの事件を新聞で公表し、重度の障害をもつ乳児はそのまま死なせるのが人道的であり、救命しても社会の重荷になると訴えた。

ヘレン・ケラーはこの事件に対していくつかコメントをしている。ニュー・リパブリック誌に掲載された「精神薄弱児に対する医師の陪審員団」と題するヘレン・ケラーの書簡を紹介する (原文はこちら

ヘレン・ケラーの寄稿文

『ニュー・リパブリック』1915年12月18日

「精神薄弱児に対する医師の陪審員団」

拝啓

ハイゼルデン医師がボリンジャーさんの赤ちゃんを死なせたときに生じた議論の多くは、生命の尊厳に対する信念を中心としています。ハイゼルデン医師の方針に反対する人の多くは、命の概念を分析する労を惜しまないなら、命とは単に呼吸をすることと分かるでしょう。彼らは間違いなくそのような存在に価値がないと認めるに違いありません。人生に高潔さを与えるのは幸福、知性、才覚の可能性であり、不健康な、奇形の、麻痺した、思考しない生物の場合、それらは存在しません。そのような生きながら死んでいる絶望的な状態の、より明白な事例が沢山あると思います…ハイゼルデン医師を批判する人が認識しているよりも。そのような異常を容認することは、普通の生命が保持している神聖さを弱める傾向にあります。

人間の庭から雑草を引き抜くことは真の命への誠実な愛を示すとはいえ、この草むしりへの反対論も1つあります。それは、それほど責任があり繊細な仕事を実行する人間を信頼できないという懸念です。人々は今まで長い間、問題の解決を任されてこなかったのではないでしょうか?(以下の重大で広範囲にわたることを任されていないのと同じように;王の地位、人種教育、仲間を養い、服を着せ、保護し、雇用すること)。刑事裁判所の陪審には、ハイゼルデン医師がしたような判断をするよう求められる機関があります。そこではある人が仲間と関わるのに適しているかどうか、生きるのに適しているかどうかを判断するよう求められます。

最も簡単で賢明なことは、奇形で白痴の赤ん坊のようなケースを専門医の陪審員の判断に任せることだと私には思えます。通常の陪審員は、訓練を受けておらずしばしば偏見のある観察者の証拠に基づいて生と死の問題を決定します。彼ら自身の評決は犯罪学の知識に基づいておらず、しばしば曖昧な偏見や検察官の雄弁さに左右されます。被告人が有罪であっても、彼が新たな犯罪を犯すのか(それゆえ社会の有用で生産的なメンバーにならないのか)知る方法がないことがよくあります。その一方で、精神薄弱者は、ほぼ確実に潜在的な犯罪者です。白痴のケースを検討している陪審員医師の前にある証拠は正確で科学的でしょう。彼らの評決は、訓練されていない観察にもとづく偏見や不正確さを含まないでしょう。彼らは、精神発達の希望がない真の白痴の場合にのみ行動するでしょう。
    
確かに、医師の法廷は他の法廷と同じように間違いやすいかもしれません。強者はそれを使って自分に都合のいいように法廷の決定を決めるかもしれません。しかし、証拠が公に提示され、決定が子供の死より前に公表される場合、間違いの危険性はほとんどありません。この件に興味があり、子供が死ぬべきだと考えない人は誰でもその子供を世話し養うことを許されるかもしれません。救う価値のあるすべての赤ちゃんに絶対的な保証を与えることは人間の力では不可能ですが、それは私たちの生活全体でも同じです。保守派は、これらの新しい方法や制度の完全性を求めすぎていますが、古いシステムが期待をどれだけ下回っているかは彼らも分かっています。人間の知性、信頼、正義の平均が生じるまでの間、私たちは、より良い結果を待ち、期待することしかできません。その間、私たちはハイゼルデン博士のような立派な人間性と、臆病な感情主義のどちらかを選ばなければいけません。

ヘレン・ケラー
マサチューセッツ州レンサム
100年以上前なので用語が古いが、精神薄弱者はmental defective、白痴はidiotの訳。

ヘレンケラー ニューリパブリック
当時の紙面(『ニュー・リパブリック』1915年12月18日)

当時の新聞でボリンジャー事件は広く議論され、ハイゼルデン医師への賛成意見も反対意見も多く出た。なのでケラーの意見が特に異端という訳ではない。

ケラーは障害児の安楽死についての意見を1915年にいくらか発信したが、その後は特に何も発言していない(このときの発言を否定したり撤回したりもしていない)。ケラーはいろんな分野で政治的発言をしており、この件には関心が続かなかったのだろう。

ヘレン・ケラーは障害以外のことでも多くの政治活動を行っていた。ケラーは社会主義者であり、1909年にアメリカ社会党に入党、労働運動を支持し、反戦活動、女性参政権運動、産児制限運動などに関わった。この発言もそういった急進的な政治活動の一つだった。

ヘレン・ケラーにとって、盲聾は受け入れられる障害だったが、重度の知的障害はそうではなかった。思考しない人間は生命の尊厳を持っておらず、死なせた方が慈悲深いと考えた。

ハイゼルデン医師の行為は治療をしない消極的安楽死であって、程度の差こそあれよくあることであり親も同意していたので、ハイゼルデン医師が宣伝して回らなければすぐに忘れられ、特に大きな出来事にはならなかったとされる。彼はその後3年間で5件の同じような消極的安楽死をしているが、このことで処分は受けていない。かなり目立ちたがりの人物で、最後は売名行為が問題視されてシカゴ医師会から会員資格を停止されている。

優生学か?

ケラーの考えは優生学だと言われる。確かに知的障害者が犯罪者になるなど、当時のアメリカの(非科学的な)優生学運動に大きな影響を受けている。ただ優生学は病気や障害を持った子供が生まれにくくするという考えであって、生まれた子供を安楽死させることは正確には優生学とは異なる。優生学と安楽死は隣接しているが別のもの。この辺は言葉の定義の問題だが。

ナチスの優生学者として知られるフリッツ・レンツは、優生学の目的を達成するには不妊手術を行えばよく、安楽死は不要だとし、以下のように書いている。「安楽死は人種衛生学(優生学)の手段として支持されることはありえない。これに反対する際の最も重要な根拠は、もし不治の病をもつ子どもの抹殺が解禁されれば、社会秩序の根源的な基盤である、個々人の生命に対する畏敬の念が著しく損なわれてしまうということである」*1

ほとんどの優生学者は安楽死に反対しており、後にレンツは安楽死の法制化準備に携わるが、その根拠は優生学ではなく、不治の病にある患者を苦痛から開放するという考えからであった。
安楽死の目的はケラーも論じているように、1つは耐え難い苦痛からの開放、あるいは生命の尊厳のない状態からの開放、2つ目は関係者の負担低減、3つ目は社会の負担低減であり、これは優生学ではなく功利主義的な考えといえる。

ドイツでも安楽死を提案したのは医師のホッヘであり(『生きるに値しない命』)、推進したのも主に医師であった。医師は身近に重度の患者がいるという事情があるせいだろう。

アメリカではその後、障害者が子供を作らないようにする不妊手術が広まった(これははっきりと優生政策といえる)。安楽死が広まったという記録は特にないが、消極的安楽死は表に出ないところでされたのだろう…。ハイゼルデン医師が障害児の消極的安楽死を宣伝するために制作した映画『黒いコウノトリ』(1917年)は1942年まで上映された記録がある。

ヘレンケラー ピッツバーグ・プレス
ピッツバーグ・プレス紙 1915年11月28日、ヘレン・ケラーのコメントの抜粋。(最初の2文の訳)「人の命は、自身と世界にいくらか役立つ可能性があるときだけ神聖です」「この世界はすでに、生まれるべきではなかった不幸で不健康で、精神的に不健全な人々であふれています」

参考文献・参考サイト

Gerdtz, John. "Disability and euthanasia: The case of Helen Keller and the Bollinger baby." Life and Learning 16.15 (2006): 491-500.
これを読めばこの件について大まかなところは分かる。

【間奏】ヘレン・ケラーと〈黒いコウノトリ〉①
【間奏】ヘレン・ケラーと〈黒いコウノトリ〉② 衛生、産児調節、優生学
ネット上にある日本語のサイトではここが詳しい。

・キム・E. ニールセン『ヘレン・ケラーの急進的な生活』(2015年)
ヘレン・ケラーの政治活動に詳しい。この事件についても少し扱っている。

・ドーン・ラッフェル『未熟児を陳列した男:新生児医療の奇妙なはじまり』(2020年)
ボリンジャー事件に少し触れている。


*1:『優生学と人間社会』講談社、2000年、p102